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【その男の名は高木清明 Vol.1】1989年9月20日、1年ぶりの帰国。日本橋蛎殻町で須藤と出会う


帰国

商品取引員の光栄物産の東京本社は中央区日本橋蛎殻町にあった。

蛎殻町は、東京証券取引所のある兜町と、日本橋川を挟んだ北側にある。人形町、小網町、箱崎町に隣接する小さな町だが、江戸時代には、全国から様々な物産を積んだ舟が数多く日本橋川を往来し、両岸には味噌や醤油、米、瀬戸物、酒などを商う仲買人の店や蔵が立ち並ぶ江戸有数の商業地の一つとして栄えた。

それは明治以降も変わらず、明治8年には、蛎殻町に米穀取引所が設立され、大阪の堂島と共に米相場の中心となって発達した。米穀取引所は昭和14年、全国の米穀取引所と共に廃止されたが、戦後の昭和27年10月10日には、蛎殻町1丁目に小豆などの雑穀の先物を取引する東京穀物商品取引所(以下東穀取)として復活した。この東穀取に加え、日本橋川に明治5年に架けられた鎧橋を渡ってすぐの兜町にある東京証券取引所の周辺には現在、証券会社や商品先物取引会社が集中している。いわば、「相場の町」といっていい。

光栄物産も東穀取から歩いて3分ほどの場所にあった。

1989年(平成元年)9月20日、8月に29歳になったばかりの高木清明は、水天宮のシティエアターミナルを出て、思わず汗を拭いた。清明が3年ほど駐在していた米国中西部の金融都市シカゴは、緯度は札幌とほぼ同じで、9月も半ばを過ぎると、空気もどことなくひんやりしてくるが、東京はまだ、残暑が厳しかった。

ウォークマンを取り出し、耳にイヤフォンを入れると、今年ヒットし始めたプリンセスプリンセスの「ダイヤモンド」を聞きながら歩き始めた。

今回は、ほぼ1年ぶりの東京本社だった。

「お帰りなさい。お疲れ様でした」

会社に入るとすぐ、受付にいた2人の女性のうち、髪が長いほうが清明に声をかけてきた。社長秘書の鈴木敦子だった。清明が今日、シカゴから帰国することは、一部の社員しか知らない。敦子は久保田誠二社長の指示で、わざわざ受付で清明を待っていたに違いない。

「お疲れ様です。社長、いる?」

清明は人差し指で上を指しながら、笑顔で敦子に尋ねた。二人はつい先月、シカゴで会ったばかりだったが、清明は敦子の制服の白いシャツから覗く胸元につい目がいってしまう。その視線に気がついたのか、隣の女子社員を意識しているのか、2歳年下の敦子は逆に、硬い口調で、

「3階にいらっしゃいます。お昼をご一緒にと仰っていましたが、もうお済みになりました。高木さん、お食事は?」と聞き返してきた。思わず清明も口調を改めて、答えた。

「飛行機が少し遅れました。食事は機内でも食べましたから、大丈夫です」

時間は午後2時をすでにまわっていた。受付から1階の奥を覗くと、東京輸入大豆、東京精糖など10種類ほどの上場商品の相場が書かれた板の前で、業務部の若いスタッフたちが、「5ヤリ4カイ」、「ヤマモト10枚買い」、「トヨダ25枚売り」と、東穀取の立会場で注文を出す場立ちと呼ばれる自社の社員とつながった電話を片手に、気配値と他社の手口を読み上げている。こうした市場との電話でのやり取りを、商品取引の会社では場電と呼ぶ。

その一方で、営業部の課長たちが「15枚買い!」「5枚買い!」と、こちらは大声で場電担当者に注文を出している。なかには清明に気がつき、手を挙げる者もいた。清明にとっては、日本に帰ってきたことを実感する本社風景だった。

敦子に導かれ、3階の役員応接間に行くとすぐに、ワイシャツ姿の久保田が「よォ」と片手を挙げながら入ってきた。180センチ近い長身で、痩せてはいるが、高校時代に野球で鍛えた体は、50歳を過ぎても若々しかった。12年前、光栄物産を自らの手で興す前は、やはり商品取引員大手の目黒商事のトップ営業マンだったと聞いている。

久保田の後ろからもう一人、紺のスーツの下に赤いベストを着て、目つきの鋭い60歳ほどの紳士然とした男が入ってきた。清明には見覚えのない人物だ。

「紹介しておこう。須藤さんだ。半年ぐらい前から、営業部強化のため、コンサルタントとしてアドバイスをもらっている。以前は、俺がいた目黒商事の社長だった。もともとは、N証券の出身で、すごい人だぞ」

「初めまして、高木清明と申します。以後、よろしくお願いいたします」

清明は須藤に名刺を渡しながら、初対面の挨拶をした。

3人は黒い革張りのソファに座ると、久保田がさっそく清明に尋ねた。

「ところでアメリカはどうだった? 取引電算化の動きは本格化しそうか?こっちも、板寄せをやめてザラバ取引にするとか、電算化するとか騒がしい。証券も電算化するそうだから、いずれそちらの方向に行くんだろうが、何を準備すればいいのか分からない」

「今のところマーケットにまったく影響はありません。ただ、FBI潜入捜査事件以来、フロアーでの立会い一辺倒だった取引所の考え方が変わったのは確かです。機関投資家のトレーダーたちも、これからはフロアー取引だけでは難しくなるだろうと言っていました」

清明は、そこで言葉を切り、須藤という人物が、この話題を知っているのかどうか確かめるために、須藤の顔を見た。須藤はわずかに頷いた。

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FBI潜入捜査事件の余波

<益永 研>

この物語は実話に基づいているが、登場人物や企業名はすべて架空のものである。