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【世良敬明(せら・たかあき)】かつてプロトレーダーを夢見た敏腕編集者


世良敬明(せら・たかあき)写真

世良敬明(せら・たかあき)氏

交遊録② 世良敬明(せら・たかあき)
敬静社合同会社代表

世良敬明君との出会い

1999年のある日、パンローリング株式会社の後藤康徳社長から「紹介したい人がいる」という連絡をいただいた。それが、同社が発行した「魔術師リンダ・ラリーの短期売買入門」の翻訳者、世良敬明君だった。

世良君は、当時20代。ある商品先物取引会社のニューヨーク支店に研修生として1年滞在し、帰国したが、営業には戻る気が無いからと辞職。その時、会社から研修費用を返せと言われて、自腹で数百万円を返却して辞めたという。当時の商品業界には珍しく律儀な男だった。

パンローリングにはアルバイト募集に応募して、後藤さんと面接したそうだが、単なるお手伝いには収まらないと判断されたのか、「英語ができるなら、翻訳しないか?」と誘われて、結局、翻訳者として後藤さんと付き合い始めた、と、これは、後日、世良君から聞いた話。いずれにしても、僕とは同じ業界出身ということで、初対面から何かシンパシーを感じた人物ではあった。

エム・ケイ・ニュースUSAの駐在員として

それは世良君も同様だったようで、有難いことにその後すぐ、世良君はエム・ケイ・ニュースUSAの駐在員として、シカゴに来てくれることになった。エム・ケイ・ニュースUSAは、1986年にシカゴ・ボード・オブ・トレード(CBOT)の32階に経済ルックの木原典社長が設立したケイザイ・ルック・インターナショナルが前身で、僕自身、駐在員として87年から92年まで足かけ6年間、その事務所にいた。94年に経営上の理由から経済ルックがケイザイ・ルック・インターナショナルを閉鎖することになった際、思い切って独立して、僕がシカゴ事務所をそのまま引き継いだが、99年当時のエム・ケイ・ニュースUSAの駐在員はゼロ。ちょうど、シカゴに本拠を構えるFutures Magazine社と提携して、月刊誌の「Futures 日本語版」を出版し始めたにもかかわらず、シカゴで直接Futures社と話す人材もいず、困っていた時だった。

そんな時、世良君が突然現れ、「自腹を切ってでも、シカゴに行きたい」と名乗りを上げてくれたのである。そして、世良君は、「研修生」としてエム・ケイ・ニュース社に相応の研修費用を出した上に、家賃は自分で払って、駐在してくれることになった。エム・ケイ・ニュース社にとっても世良君は、あくまで律儀な男だった。

もっとも、本人はその後、「シカゴは、先物取引のメッカ。かねがね行きたいと思っていたし、仕事をすれば、それなりの報酬は出すと益永さんが言ってくれたから、こちらも願ったりかなったりでした」と言ってくれたから、まぁ、良い縁の一つだったのだろう。

「ロビンス・ワールドカップ」で日系人初のトップ・ウィナーになったカート・サカエダ氏へのインタビュー

シカゴ時代の世良君との思い出は、取引所での取材や農家視察など、いくつもある。中でも印象に残っているのが、「ロビンス・ワールドカップ」で、日系人として初めてトップ・ウィナーになったカート・サカエダ氏のインタビューだった。

世良君はもともとトレーダーになりたくて先物ビジネスに飛び込んだ。しかも、パンローリング社で、第一回ロビンス・ワールドカップに優勝して世界的に有名になったラリー・ウィリアムズ他、有名トレーダーたちの本を読み、自身、そのうちのいくつかを翻訳もしていた。それだけ、トレーディングに思い入れが深かった。

そんな時、サカエダ氏の優勝を知り、ちょうど出張でシカゴに行っていた僕と2人でインタビューに向かったのだ。

サカエダ氏は当時、イリノイガスの本社で、サラリーマンとして働いていた。本社といっても、シカゴのダウンタウンから車で1時間以上かかる畑のど真ん中にあった。そこまでの道中、イリノイ州の大豆畑やとうもろこし畑を見ながら、当時の日本の商品先物取引業界とマーケットに関する夢や不満、そして改革についてずっと語り合っていた(ような気がする)。

そして、サカエダ氏のインタビューで、米国における商品先物取引の普及ぶりを改めて知り、帰りの道中では、日本でのトレーダー育成について熱のこもった意見を戦わせたものだ。

当時はまだ、わが国における商品先物取引のイメージは悪かった。しかし、米国でのイメージはまったく違っていた。なにしろ、ガス企業のサラリーマンが、数多くのトレーダーたちと競り勝って、しかも、「できればサラリーマンでなく、商品先物でプロのトレーダーになるのが夢」と答えたのである。世良君も当時、まさに思いは同じだったのだろう。興奮するのも当然だった。

出会いから18年たった今。

世良君はその後、個人的にもロビンス・ワールドカップに参加したが、成績は不明。一方で、「月刊Futures Japan」の副編集長として活躍していただき、2005年に帰国するまで、シカゴのトレーダーたちと個人的にも交際するなど、初心を貫き通した。

その頃、シカゴに出張で行くと、すし屋でアルバイトをしていた若者や、日本企業の現地子会社ではたらいていた若者などを紹介してもらったが、その若者たちの何人かは現在、シカゴや東京で、プロのトレーダーになっている。それも、おそらく世良君の影響によるものだろうと、僕は勝手に思っている。

帰国後、世良君は、世良君の帰国を待ち望んでいたパンローリングに編集スタッフとして正式に入社し、パンローリングの出版する様々な本の翻訳と編集を手掛けた。今は、独立して自分の編集会社を経営しているが、翻訳と編集の腕はますます上がっている。

<益永 研>